- 太田
- 当時の彼らのテープを聴いたら、もう立てない。もちろんトイレなんか行けないし、途中で止めるなんか到底できない。だから、楽しくて、しょっちゅう聴いてる音楽では全然ない。
- だから『楽しい夕に』のあとの『シングル・マン』なんかもそうなんですけど、大切なアルバム過ぎて、実はそうそう聴けないんですよ。

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Disc 08
『楽しい夕に』
RCサクセション
Amazon
- 太田
- そう、聴けないのよ。こっちの心も真剣になっちゃうからね。それこそ悲痛な思いだから。
- ホントそうですよね。「ヒッピーに捧ぐ」なんていい加減な気持ちでは聴いちゃいかんのですよ!(ドンッとテーブルを叩く)。すいません、興奮してます(笑)。
- 太田
- 聴けない。音楽はある種の高みに行くと、そういうことがあるなぁというのを実感するよね。それは演奏じゃなくて「声」だからと思うんだ。
- やっぱり、声ですか。
- 太田
- 僕はそう思うんだよ。
- しかし、これだけの楽曲を作っていながら、まるで世間に認められない清志郎の絶望といったら想像すらできませんよね。
- 太田
- その後、清志郎は第2次RCで起死回生の復活を果たすよね。音楽家なんて売れなきゃゴミくずと一緒だということに気づいて、「もう絶対、俺は売れるぞ」と背水の陣で、ミック・ジャガーで行くんだと決意したわけだ。
- 清志郎は本人もインタビューで言ってますが、ビジュアルや歌詞など、意図的にミック・ジャガーをお手本にして、世間にも届きやすいようにアレンジしてブレイクしたんですよね。清志郎がそこまで腹を括ったのは、結婚しようとした時、相手のご両親に反対されて、「これで売れてりゃなんでもないのにな」と思ったということもインタビューで残っています。
- 太田
- まあ、いろいろあるんだろうけど、「男は食っていかなきゃならない」と思ったんだろう。「音楽家です」なんて言っても人前で演奏しないミュージシャンなんて、高座に上がらない落語家みたいなもの。それが成功して、ドンドンドンドン人気が出て、時代も従いてきた感じになるのかな。
- そうですね。
- 太田
- シングルの「ステップ!」が出てからだ。そうなるともう隠し録音などしなくてもいい。一人よがりな責任感は消え、「RCもついにメジャーの入口に来た、ああよかった」と思うと同時に気持ちは少しずつ離れていった。生活向上委員会の梅津さんのブラスセクションが入ったのは大賛成だったが、肝心の曲想は変わっていった。
- うーん。
- 太田
- 坂本龍一と組んだ資生堂のキャンペーンソング「い・け・な・いルージュマジック」の時に、僕は宣伝部にいたけれど、そのキャンペーンの担当ではなかったので、「キミたち清志郎がわかってんの? でも清志郎がメジャーになるのなら資生堂をうまく使ってくれればいいか」と、わりあい冷ややかに見ていた。
- うーん。
- 太田
- その後「キング・オブ・ロック」と呼ばれるようになったのはご存知の通り。ところがガンで入院した。これはえらいことになった。まさか清志郎がと。……しかし復帰した。
- そうですね!
- 太田
- あれは嬉しかった。実は僕もかつて軽いガンから復帰した身なので「そうだぞ、ガンなんてたいしたことないぞ、このオレを見ろ」と。
- あ、知りませんでした。
- 太田
- その復帰後のすばらしさ!!
- そうですね!
- 太田
- 大阪のラジオ局に頼まれた新曲もよかった。
- 「Oh!RADIO」ですね。
- 太田
- 『忌野清志郎完全復活祭 日本武道館2枚組ライブアルバム』は日本のロックライヴCDの頂点じゃないかな。この熱唱を聞いて、さっき話した「天才が逆境に会うと名作を生む」の表れと気づいたんだ。「オレはこれで死ぬのか」以上の逆境はないでしょう。清志郎は病院のベッドで一生を振り返り、自分はこれで行くと決めたデビューの頃に思いをはせた。そうして「もし生きて病院を出られたら、もう一度あの頃の初心にもどろう」と決心したのではないかと。武道館ライヴで、入院する直前の、結果的には最後のスタジオ録音になったアルバム『夢助』の一曲「激しい雨」の「RCサクセションがきこえる」のリフを聴いた時は鳥肌が立った。清志郎は再び生まれ、あのRC時代に帰って行くんだろうと。
- …………。
- 太田
- しかし死んでしまった。僕の思う清志郎の生涯のテーマ「救われない悲しみ=魂の救済」は永遠に終った。
- …………。
- 太田
- 7時間並んで手を合わせた葬式で遺影を仰いで思ったのは、清志郎の音楽の絶頂期は最初の3人組RCの重い情感と張りつめた演奏にある。そこに立ちあえたのは自分の人生の宝物になった。そうしてジァン・ジァンの録音テープを思い出した。あの名曲はついに吹き込まれず、あの曲がよみがえることはもう絶対にない。「あの歌が思い出せない」にしてしまってはいけない。そういう使命感をずっしりと感じたんだ。
- …………。
- 太田
- それからしばらく間をおき、一緒に録音していた友人と相談して、一切のテープをベイビィズ(忌野清志郎の個人事務所)に寄託することにした。友人は当時、TVK(神奈川テレビ)でやっていたRCがレギュラーの生番組「ヤングインパルス」のエアチェックも持っていたし。
- あれはちょっとだけDVDが出ましたね。
- 太田
- うん、懐かしかったなー。
- オリジナルの3人ですね。
- 太田
- 2人でカセット40本くらいあったかな。これは著作権の問題もあるし、僕はこういうことには全くの素人だから、音楽業界の人に立ちあってもらう方が良いだろうと、宗像さんにお願いしたんだ。
- あ、そうなんですか!
- 太田
- 僕と、友人と、宗像さんの3人で代々木上原のベイビィズを訪ね、代表の相澤さんに会い、経過と趣旨を話した。趣旨は「こういうものがある、ご自由にしてください」。でも「寄贈します」とは言わなかった。「コピーしてお返しください」と。その理由は「青春の思い出です」ときれいごとを言ったが、本心は「寄贈して行方不明になったら大変だ。返す約束ならば必ずすぐコピーするだろう」。相澤さんは「貴重なものなので大切にお預かりいたします」と言ってくれた。
- ははあ。
- 太田
- つまり使い道はどうであれ、あの名曲の演奏記録はこのチビカセット一個しかないという重圧から逃げたかった。およそ30年以上、そのテープの存在はつねに頭の片隅にから離れなかった。不安を解消するにはコピーだが、ワカメテープに劣化しているかもしれないものは、プロの録音技師でないと危険でさわれない。本人の事務所ならできるだろう。そういう願いもあった。もちろん、死んだ清志郎への供養であることは言うまでもないけれど。
- そうですね(しみじみ)。
- 太田
- ベイビィズからの帰り、3人で代々木上原の居酒屋に入り、清志郎に献杯したのが忘れられないよ。
- …………。
- 太田
- それから2ヶ月後、その居酒屋に相澤さんが大きな紙袋を2つ提げてやってきた。 「これは太田さん、これは松井さん」と。松井は一緒に録音してたオレの友人。中身はCDがおよそ30枚ずつ。2ヶ月かけ、デジタルリマスターしてくれていた。
- よかったですねぇ。
- 太田
- その安堵感、キミわかるかね!
- わかります。「もうこれで安心だ、カセットをもつ責任から解放された」という思いですね。
- 太田
- その通り!!太田、松井、ベイビィズ、あとNHKにもあるはず。デジタル複数保存とはありがたいものだね~。
- カセットはもどりましたか?
- 太田
- もどったよ、でも現金なもので、以後あまり大切にしなくなった。棚にそのままとってあるけどね。
- CDで出ないんですかねぇ?
- 太田
- もちろん出ると嬉しいが、後はベイビィズ次第だからね。僕としてはデジタル保存されたことで満足。だってオレはいつでも聴けるんだもんね(にんまり)。
- グヤジー……。
- 太田
- ははは、こんど聴かせてやるよ。
- やったー!ぜひお願いします!
- 太田
- タダじゃないよ、酒もってこい!
- はあ、キザクラで(笑)。
- 太田
- もうちょっといいやつ。ははは、ウソだよ。